ウォシュレットが止まらない
ウォシュレットが止まらない。
我々の日常に最も近い所に存在する地獄である。
もし自分がその状況に陥ってしまった場合、
いかにして脱出を試みるだろうか。
さらにそれがそこそこいい雰囲気のお店での出来事だとしたらどうだろうか。
これはそんな悲劇に直面した、1人の青年の物語である。
そう、あれは秋の始めの夕暮れ時のことだった..............
珍しく新橋に降り立った私は、友人と夕食の約束をしていた。
ステーキである。それもちょっといい感じの。
たまにはこういう店にもいくべきだというエンゲル係数のことしか頭にない意見が通ってしまったためである。
高いはうまい。
そう確信した時間であった。
目の前で焼いてくれるステーキは、夜のダイエーで半額シールが貼られているそれとは明らかに違った。
違ったが故に、すぐ胃もたれし、トイレに駆け込むことになった。
やたらピカピカのトイレで用を足し、なんの気なしにウォシュレットを作動させ、数秒後に停止ボタンを押した。
押した......のに。
一向に私のお尻への刺激は止まらない。
何度押してもダメだ、止まらない。
「???」
"止"ボタンを押すと、モニターには確かに"停止します"の文字が表示される。
故障はしてないようだ。
じゃあ一体なんなんだ....?
とどまることを知らない水流とともに、
絶望が押し寄せてくる。
日本が生んだウォシュレットという奇跡の発明は、これまで多くの人を幸せにしてきた。
しかし、科学はひとたび使い方を誤れば、人類をたやすく破滅へと導く。
そう、かつてのダイナマイトや核兵器のように....
ウォシュレットだって例外ではなかったようだ。あまりにも日常に入り込みすぎて気づかなかったが、こいつは簡単に人を殺めることができるのだ。
「俺...ここで死ぬんだ......」
ふやけ始めたお尻。
執拗にそれを攻めてくる悪魔のマシン。
その策謀に手も足も出ずにただ受け止めることしかできない私。
かといって無闇に立ち上がる勇気はない。
チクショウ......
せめて水圧だけでも弱めようとボタンを押すが、これも反応しない。
どのボタンなら反応するのだろうか、とにかく適当にボタンを押してみる。
マッサージボタンだけが反応した。
突如リズミカルに動き出したそれは私を深淵に追いやる。
私のふやけきったお尻に追い打ちを与えられ、
いよいよパニックに陥る私。
便座のフタを閉めてしまえば勝ちなのではないか、と"便座開/閉"ボタンを押したり(私は便座に座っている)、意味もなく水を流してみたり(流すものはすでになにもない)。
使ったことのない"乾燥"ボタンを押してみたり......
あ、乾燥ボタン反応した。
今まで私を悶え続けさせた水が止まり、
代わりに温風が私のお尻に吹き付ける。
さながら神風だった。
突然の終焉を感じ、高らかに勝利宣言をした後、静かに立ち上がる。
センサーが反応し、風が止む。
もうこんな思いは二度としたくないな、と動かなくなった悪魔のマシンを一瞥し、トイレを出た。
ここまでドラマチックなことはなかなか経験しないぞ、いっそ映画化して欲しいなと思ったが、
映像としては男が便器に座って立つしか動きがないことに気づいて諦めた。